神社参拝記
南幌神社(空知郡南幌町緑町)2025年6月23日参拝
南幌神社(北海道・空知郡南幌町緑町)
旧社格 村社
御祭神 天照大神(あまてらすおおかみ)
八幡大神(はちまんおおかみ)
伊弥彦大神(いやひこのおおかみ)
白鳥大神(しらとりのおおかみ)
沿革
明治27年(1894年)旧仙台藩の重臣石川邦光を開拓団長とした人々の守護神として郷里の宮城県伊具郡角田町に鎮座する八幡大神の分霊を受け、移住地内の南16線西6番地に祠を建てて祀る。
明治27年(1894年)三重県の開拓団体が9月15日、団体規約に基づき、南12線西4番地に伊勢神宮遥拝所を設置する。
明治28年(1895年)6月15日、垂水幸五郎・林栄作・笹部甕雄・渡辺浜太郎らが発起人となって、南13線西17番地の白鳥沼堤塘地に、日本武尊を祭神とする白鳥神社を創建する。
明治29年(1896年)垂水幸五郎は故郷の彫刻師である音五郎に依頼し、祭神の像を造って白鳥神社に安置する。
明治30年(1897年)4月、多田宇市が南15線西11番地に八幡大神を祀り、八幡神社と称した。
明治30年(1897年)5月、前年に石川開墾地を譲り受けていた松井倉蔵が、新潟県西蒲原郡弥彦村の彌彦神社から分霊を受けて八幡神社に合祀することとし、氏子からの寄付を集めて社殿を改築する。
明治30年(1897年)9月17日、三重県開拓団体長の板垣贇夫が所有地を寄付し、伊勢神宮から天照大神の分霊を受けて、無願社の五十鈴神社を創建する。
明治30年(1900年)笹部甕雄が熱田神宮からの分霊を受けて白鳥神社に合祀する。
明治42年(1909年)春、本間藤市・谷川又治・水野太平・石川三右ェ門らが発起総代人となり、無格社の幌向神社を創立することとし内務省に神社創立願を届け出ることを決する。
明治43年(1910年)五十鈴神社の社殿を改築。
明治43年(1910年)8月に神社創建願を提出し石川部落の八幡神社を昇格させる形で11月、幌向神社に無格社認可が下りる。
大正07年(1918年)9月の暴風雨により腐朽が進んでいた幌向神社の社殿は甚大な被害を受け倒壊寸前にまで至る。また、各部落の無願社もまた同様に腐朽甚だしい状況となり、空知支庁長の稲見貞蔵は、各部落の神社を合祀して「一村一社」とする説を述べて、幌向神社を村の中心に移転し村内の各神社を合祀することで意見の一致を見る。
大正08年(1919年)10月、南15線西8番地に新築の社殿が竣工する。
大正09年(1920年)8月に村社へと昇格し、同年10月22日には神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和07年(1932年)1月、社務所が建てられる。
昭和20年(1945年)GHQによる神道指令により社格はなくなり宗教法人の神社となる。。
昭和34年(1959年)9月10日に新社殿が竣工し、13日に遷宮式が行われた。
昭和36年(1961年)経費の都合がつかずに先送りされていた社務所の改築が、氏子からの寄付金で実現。
昭和38年(1963年)前年に幌向村が南幌町となったことを受けて、神社の名称も南幌神社と改められる。
江別神社(江別市萩ケ岡)2025年6月23日参拝
江別神社(北海道・江別市萩ケ岡)
旧社格 郷社
御祭神 天照大神(あまてらすおおかみ)
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)
加藤清正公(かとうきよまさこう)
沿革
明治18年(1885年)熊本県より屯田兵村への入植・開拓をした人々の守護神として加藤清正公を現在の江別市緑町飛鳥山にてお祀りする。
明治24年(1891年)出雲大社より大国主大神を奉斎し祭神とする。
明治28年(1895年)飛鳥山から現在地の萩ケ岡に遷座する。
大正04年(1914年)大正天皇御即位の大典事業として社殿、社務所を造営し、伊勢神宮より天照大神の御分霊を奉斎し主祭神とする。
大正06年(1916年)内務省より神社創立の認可を受け村社に列する。
大正15年(1926年)郷社に昇格する。
昭和20年(1945年)GHQによる神道指令により社格はなくなり宗教法人の神社となる。。
昭和59年(1984年)御鎮座百年記念事業として現在の社殿が竣工し遷座祭が斎行される。
参拝時の記憶
駐車場の入口が車では分かりづらいが駐車場は広く祭典等の行事がなければ車での参拝も容易である。
御朱印は全て基本的に書き置き対応で日付のみ記載していただける。
境内は非常にコンパクトである。
錦山天満宮(江別市野幌)2025年6月23日参拝
錦山天満宮(北海道・江別市野幌)
旧社格 無格社
明治18年、翌19年、九州各県・山口・広島・岡山・鳥取の各県から野幌屯田兵の入植により原始の密林を開拓し、入植者の「心のよりどころ」として明治22年伊勢皇大神宮から御分霊を奉斎したのが始まりである。
創祀当時は「錦山神社」として野幌地域の鎮守、五穀豊穣の神として崇拝されていた。
昭和48年、九州太宰府天満宮から菅原道眞公の御分霊を奉戴し、錦山天満宮と改名して以来「天神さま」の御神徳を仰ぎ今日に至る。平成2年には、太宰府天満宮より御神納の梅の苗木を賜り、境内には梅園が造成された。また、受験シーズンになると、近くの中学・高校生を始め道内各地の受験生が合格祈願に訪れる。
沿革
明治18年(1885年)九州各県・山口・広島・岡山・鳥取の各県から野幌屯田兵村への入植・開拓が始まる。
明治22年(1889年)伊勢皇大神宮から御分霊を奉斎し「錦山神社」として創建される。
明治32年(1899年)伊勢神宮から御分霊を受けて天照大御神を祭神とする。
明治35年(1902年)江野神社(仮称)として神社創立願を提出するがすでに村内に野幌神社があり「一村一社」の規定により却下される。
昭和02年(1927年)現在地に遷座する。
昭和15年(1940年)皇紀2600年記念事業として社殿造営に着手する。
昭和16年(1941年)社殿竣工する。
昭和17年(1942年)無格社の指定を受ける。
昭和48年(1972年)九州太宰府天満宮から菅原道真公の御分霊を奉斎し「錦山天満宮」と改名する。
昭和62年(1987年)御鎮座百年となる。
平成02年(1990年)九州太宰府天満宮より御神納の梅の苗木を賜り境内に植樹する。
参拝時の記憶
駐車場の入口が分かりづらかったが駐車場は広く祭典等の行事がなければ車での参拝も容易である。
御朱印は全て基本的に神職が書き入れてくださるが、繁忙期は書き置き対応の事もある。(午前9時~午後5時)
境内は公園に隣接していて非常にコンパクトである。
大麻神社(江別市大麻)2025年6月23日参拝
大麻神社 鳥居
大麻神社 御朱印
大麻馬頭観音堂と説明板
大麻馬頭観音堂 説明書き
一、本尊 馬頭観世音菩薩 三体
一、由緒 大麻の馬頭観音は大正十三年麻畑の中田幸太郎氏の愛馬が急死したとき、地区住民からの志と上野孝義氏のすすめにより亡馬の供養のために翌年三月 四番通りと十三丁目角の福屋角助氏の土地を借り受け建立したことに始まる。
ついで昭和二年天徳寺福田教順住職と安彦常治氏の発起により大曲の伊藤義光宅の一角に大曲地区住民の寄付によって建立され、さらに昭和三年樹林地では鈴木小七氏が先導となって馬頭碑が建立された、爾来今日に至るまで毎春四月十七日には開拓以来大麻発展の礎となった牛馬の供養が催されるようになる。
一、堂宇再建 昭和三十七年頃より大麻農事連合会が中心となって馬頭祭の執行にあたり堂宇再建の機運高まり昭和五十二年地区有志一同相謀り浄財をつのり施工者小玉工務店によりここに堂宇の新築再建を見る。
昭和五十二年九月仏歓喜日 大麻農事連合会
開村記念碑
開村記念碑 碑文
大麻は野幌兵村の給興地にして人跡未踏の原始林なりしも明治二十四年、上野興四郎等数戸はじめて大曲の地に開拓の鍬を下せしを以て起源となす。
麻畑は(明治)二十六年、福屋角助農を志し次で月田弥三郎等入地、爾後伊藤三代吉等水稲試作の成功により入植者増加し漸く村落を成すに至り平本與三吉部落総代となり部落自治の基を成す。
樹林地は兵村薪炭備林として存値保護されしが、伐採後(明治)三十八年、小作制度により鈴木寅十郎等が開墾せしに始まる日清日露の戦役は共にその開拓を促進し農村の基盤を確立するを得、(明治)三十九年、二級町村制施行当時江別村字大曲麻畑樹林地と称されしも昭和十年字名改正により統一して大麻と称すに至る。
福屋角助等子弟の教育を憂慮し、相計りて(明治)三十一年、施設教育所を創始し次で(明治)三十四年、公立麻畑簡易教育所の開設となり、爾来先人の努力よく今日の充実せる教育施設を成すに至る。大正八年神社の合祀と(大正)十一年。青年俱楽部の建設を実現して精神文化の基調とし村民相協力して民風の振作に努む。
その後、上野孝義、中田幸太郎等十余年に亘る献身的努力により昭和十四年、全部落の兵村公有地は開放され待望の自作農となることを得。(昭和)十九年遂に農村電化を実現し村勢はここに一大躍進をみるに至る。先人の業績また偉大なりというべきなり。
戦後国家再建に精進し郷土は開拓地を加え七十六戸、田畑四百七十余町、乳牛二百頭を算え各その業に安んじ開村七十年を記念しここに開拓先人の功績を称え事績を顕して碑となす。
昭和三十五年九月 元石狩支庁長 能木喜七 撰並びに書
(句読点、かっこ書きの元号は私が追記した。また、読み易いよう改行している)
大麻開基百年碑
大麻開基百年碑 碑文(裏面)
大麻は、もと肥沃な農地なりしが北海道知事の要請に応え、昭和三十八年、父祖伝来の地を住宅用地として道に供したり。
ここに人跡未踏の大地を開拓した先人の遺徳を偲び、碑を建立し感謝の誠を捧げる。
平成二年九月二十四日建立
大麻神社略史碑
大麻神社社史略記 碑文
明治三十三年麻畑に居住の福島角助氏が宅地に「八百萬神」の木碑を建て祭りを行っている。
その頃大曲の平本与三吉氏の宅地にも小祠を建立し祭りを行っている。その後西野幌製糖会社の地に小祠を建立し十二錦山神社として開拓者の寄りどころとした。
大正八年麻畑実業青年会が明治四十三年から借りていた現在地に社殿を御造営しそれぞれ木碑小祠を合祀し大麻神社と呼称したのが大麻神社の創立となっています。
(北海)道の大麻団地の造成に伴い大麻地域の神社として入居された人たちも参加し一段と賑やかな祭典を行って来ている。
昭和五十一年総代並に崇敬者で御社殿造営奉賛会を結成し、五十二年九月落成し神社本庁包括関係が設定され同年十一月宗教法人大麻神社設立により今日に至っている。
(碑・裏面記載) 入植百年記念
明治二十三年富山県ヨリ札幌郡江別村字小野幌番外地ニ入地シ明治三十七年大曲ニ入植ス。
奉納者
略
一九九五年 五月吉日建之
大麻(おおあさ)神社(北海道・江別市)
旧社格
明治33年麻畑(現在の江別市大麻の一部)に最初に入植した福屋角助が大麻の小高い丘に「八百萬神」と記した角柱を建て祭りを行っている。
同年、大曲の平本与三吉の宅地にも小祠を建立し祭祀し、続いて明石石之助も小祠を建立し「十二錦山神社」として開拓者の寄りどころとした。
この3つの神社に、大正8年他地区にもあった小祠2柱を合祀し、現在の位置に本殿拝殿を御造営し社名を大麻神社と呼称し、この5柱神を「開拓祖神」として今日まで崇められている。
沿革
明治23年(1890年)富山県より上野興四郎ら数戸が当地に入植する。
明治33年(1900年)麻畑(現在の江別市大麻)に入植した福屋角助が「八百萬神」と記した角柱を建て祭祀を行っていた。
明治33年(1900年)大曲に入植した平本与三吉も宅地に小祠を建立し祭祀を行っていた。
明治33年(1900年)頃、明石石之助、小祠を建立し「十二錦山神社」として開拓者の寄りどころとした。
大正08年(1929年)麻畑実業青年会が借りていた現在地に上記3社の他2社を合祀し社殿を御造営し大麻神社と呼称した。
昭和35年(1960年)開村70年を記念し開村記念碑を建立。
昭和51年(1976年)崇敬者で御社殿造営奉賛会を結成し、翌昭和52年(1977年)社殿建て替え新築。
昭和52年(1977年)神社本庁と包括関係設定し宗教法人となる。
平成02年(1990年)大麻開基百年碑を建立。
平成07年(1995年)大麻神社略史碑を建立。
信濃神社(札幌市厚別区)2025年6月23日参拝
信濃神社 参道と厚別開基百年之碑
厚別開基百年之碑碑文と境内社 牛頭天王社
信濃神社 社殿
信濃神社 御朱印
信濃神社(北海道・札幌市厚別区)
旧社格 村社
明治14年長野県上諏訪より、河西由造が30戸の入植者と共に厚別中央、西部、川下で開墾に励んだ。明治15年諏訪大社より御分霊を奉戴し、心の拠所として、初めは小さな祠を建てて祀っていたが、明治30年、河西、世話人達によって、堂々たる御社が創建された。昭和53年80余年の星霜を経て、老朽化が進み、同9月、現御社殿が竣工した。旧社殿は教化育成などに役立つ事を念願し、北海道開拓の村に保存されている。昭和19年単立社旭町神社の御祭神が、地域の氏子達の依頼により、信濃神社に合祀せられた。又、御鎮座90年の佳節の記念として昭和63年5月氏子30名と共に、長野県諏訪大社より、御祭神、建御名方富命の妃神、八坂刀売命の御分霊を奉戴し、夫婦神共々に仰ぎ奉り、殖産の道に、氏子繁栄に、心のよるべとしてお祀りした。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神
上毛野君田道命 旧旭町神社 明治22年創祀 昭和19年8月15日合祀
沿革
明治15年(1882年)現在の地に郷里の諏訪大社より御分霊を奉戴し、開拓民の心の拠所として小さな祠を建て祀った。
明治30年(1897年)河西由造ら世話人たちにより堂々たる御社が創建され、公認神社となる。
昭和04年(1929年)村社に列せられる。
昭和19年(1944年)単立社 旭山神社が氏子達の依頼により合祀(境内社 牛頭天王社)
昭和53年(1978年)老朽化した社殿を建て替え新築。(旧社殿は北海道開拓の村にて保存)
昭和57年(1982年)厚別開基百年之碑 建立。
昭和63年(1988年)長野県諏訪大社より、御祭神、建御名方富命の妃神、八坂刀売命の御分霊を奉戴。
厚別開基百年之碑 碑文
歴史は悠久にして貴重な時間の流れである。
厚別は河西由造氏外十二名(信州信濃)の入植に始まり、当時不毛の泥炭湿地、森林火山地帯のこの地に
先駆者は遠大な理想のもとに開墾に着手。打続く水害冷害の災害に禍されながら此の窮状を克服。
爾来風雪百年。
今ここに政令都市札幌の副都心として、この繫栄を子々孫々に伝えることを希い茲に「厚別開基百年記念碑」を
建立する所以也
昭和五十七年 九月吉日 建之
厚別開基百年記念事業協賛会役員名
六十一名の氏名あり
(句読点はブログ作成者による。)
参拝時の記憶
駐車場の入口が分かりづらかったが駐車場は広く祭典等の行事がなければ車での参拝も容易である。
駐車場は社殿側面にあるため歩道に従っていけば鳥居を潜っての参拝は可能。
御朱印は全て書き置き対応である。(午前9時~午後4時)
御守りなどの授与品も種類が多い。
平日ではあったが参拝者が多く地域の神社として大切にされている印象を持ちました。
厚別(あしりべつ)神社 2025年6月18日参拝
厚別神社 境内と第三鳥居
開拓記念碑
忠魂碑
厚別神社(北海道・札幌市清田区)
旧社格 無格社
明治7年(1874年)この地域(アシリベツ)に最初に入植した長岡重治が自身の開墾地に小さな祠を作り崇拝していた。
明治18年(1885年)開拓が進むにつれ、長岡重治は自身以外にも多くの人に詣でてもらいたいと思い、旧国道(国道36号)と厚別川(あしりべつがわ)の交差する東側に長岡重治、波岡誠一郎らが社を建立。天照大神、大山祇神、倉稲魂神の神霊を奉斎し、五穀豊穣と地域住民の安全を祈願した。鎮守の氏神として祀られる。
大正6年(1917年)現在の地に本殿を建設。
大正7年(1918年)忠魂碑が帝国在郷軍人会により建立。
昭和5年(1930年)公認神社に認定。
昭和21年(1946年)宗教法人を設立。
昭和45年(1970年)新社殿に改築。
昭和50年(1975年)開拓記念碑 建立。
開拓記念碑 碑文
風雪百年
人跡未踏のこの地が開拓の鍬を入れてより一世紀
ここに今日の繁栄をみるは先人の血と汗にまみれた尊い開拓魂の結集の賜物である。
茲に開基百年を迎えその功績と遺徳を偲び記念碑を建立し長く後世に伝える
昭和五十年九月十二日
清田地区開基百年記念事業実行委員会長
見上 権治郎
参拝時の記憶
駐車場の入口が分かりづらかったが駐車場は広く車での参拝も容易である。
駐車場からは第三鳥居を、本通りからは第一、第二鳥居を潜っての参拝となる。
御朱印は全て書き置き対応だが毎月のようにデザインが変わる模様。
御守りなどの授与品も種類が多い。
平日ではあったが参拝者が多く地域の神社として大切にされている印象を持ちました。
清田稲荷神社 2025年6月18日参拝
神社全景及び拝殿
清田稲荷神社(北海道・札幌市清田区)
旧社格 なし
北海道神社庁 非加盟
平成19年(2007年)京都伏見稲荷大社より御分霊を授かる。
平成22年(2010年)現在地、札幌市清田区里塚に社殿を建立し鎮座、社名を清田稲荷神社と定める。
地域住民や崇敬者の心の寄りどころとし、鎮守の社とする。
ご神威の更なる発揚と共に地域の安全と安寧を願う。
参拝時の記憶
急な斜面に小さな拝殿がある神社で猫が守り神のような存在となっており、数匹の猫が神社の周囲で暮らしているようです。
参拝時もお昼寝中の猫がおりました。私が参拝するため近づいても一度目を開いてみただけで逃げることもなく昼寝を続けておりました
駐車場はないため、道路と河川の間の空地に停めざる得ず少し危険です。
御朱印は手書き対応です。
御守りなどの授与品には猫を使った物の種類が多いのも特徴です。
社務所が原則として日・月曜日と祝日はお休みとのことです。
北門神社 2024年9月23日参拝
北門神社(北海道・稚内市)
神職が常駐する日本最北の神社です。
北門神社は天明5年、松前藩の請負人村山伝兵衛が宗谷在駐の際、北門鎮護の守護神として天照皇大神を奉斎し、小社を建立して、宗谷大神宮と称したことが創始として伝えられる。
天明5年 (1785年)宗谷大神宮として創建。
明治29年(1896年)現在地に社殿を移築し、武甕槌神、事代主神を合祀して、北門神社と称した。
明治35年 (1902年)社殿を竣工。
明治44年(1911年)稚内町山火のため建物全般消失。
大正2年 (1913年)本殿拝殿再建落成の上遷座祭が斎行される。
大正5年 (1916年)村社に列格する。
大正14年 (1925年)社務所建物が寄進される。
昭和8年 (1933年)郷社に昇格する。
昭和20年(1945年)GHQによる神道指令により社格はなくなり宗教法人の神社となる。。
昭和53年(1978年)社殿及び神輿殿が竣工し遷座祭が斎行される。
昭和54年(1979年)社務所を改築竣工。
平成8年 (1996年)授与所新築。
参拝時の記憶
御朱印は神職(宮司さん)が1人で手書き対応するので大変そうでした。
あらかじめ書いておいて日付だけ入れるという事はなく御朱印帳に直に書いていただきました。
テレビで紹介された影響か観光客も多かった印象です。
天塩厳島神社 2024年9月23日参拝
天塩厳島神社
天塩厳島神社は文化元年(1804年)9月、福山(松前)の豪商、栖原小右衛門が天塩漁場の高処に弁財天を祀ったのが始まりとされている。
明治政府は明治4年(1871年)神仏分離令を布告し神社を国家の宗祀とし、「郷社定則」によって社格制度の
整備を行った。
明治42年(1909年)現在地に遷座。
大正10年(1921年)町村が祀る「村社」の社格に列し、昭和2年()地方庁が祀る「郷社」に昇格し天塩郡全体の守護神として祀られていた。
大正15年(1926年)改築工事が行われる。
昭和17年(1942年)拝殿落成。
昭和20年(1945年)GHQによる神道指令により社格はなくなり宗教法人の神社となる。
昭和52年(1977年)拝殿内部改修工事が行われる。
平成22年(2010年)老朽化が著しくなり町民有志による「天塩厳島神社社殿修復期成会」が設立される。
平成23年(2011年)全町民からの寄付により社殿修復工事が行われる。
平成23年(2011年)天塩町の有形文化財に指定される。
参拝時の記憶
想像していたより大きな境内地で驚きました。公園の中に神社があるといった感じです。
長い参道は草が伸びていて管理が大変そう(冬の除雪も大変だろう)
天塩厳島神社 2024年9月23日参拝